但馬の国 竹田城の紹介  2005年5月4日


5月の風に誘われR176を北上して柏原から春日そして和田山町にある竹田城跡に行ってきました。
新緑に包まれたその山城に吹く風は爽やかで日頃の疲れを癒してくれる空間に出会えました。


竹田城山門 
ここから登る事30分ぐらいで山城に到着

(地図)
「虎臥(とらふす)城」の別名を持つ山城です。
但馬守護であった山名持豊(やまなもちとよ、後に出家して山名宗全(そうぜん))が室町時代中期の永亨〜嘉吉年間(1400年代中盤)に築城したとされる。築城当初は石垣のない総土塁造りの中世城郭でした。
和田山は丹波・播磨から但馬へ侵入する敵を迎え撃つには絶好の地で持豊の重臣であった太田垣光景(おおたがきみつかげ)が城主の大役に任じられた。山名氏はかつて「六分の一衆(日本の6分の1の領土を支配した有力者)」と呼ばれ室町幕府では管領(将軍を補佐し政務を統括する役職)と並ぶ勢力を持っていた。足利将軍家の後嗣問題や幕政に参与する斯波氏・畠山氏の相続争いで日本が真っ二つに割れているこの時期、宗全は管領である細川勝元と対立し遂に1467年(応仁元年)京都船岡山の合戦を機に大乱が勃発したのでした。細川勝元を総大将とする東軍24ヶ国16万騎には足利義視(あしかがよしみ)・斯波義敏(しばよしとし)・畠山政長(はたけやままさなが)・武田氏・京極氏らが参入。片や西軍20ヶ国11万騎の総大将は山名宗全、足利義尚(あしかがよしひさ)・斯波義廉(しばよしかど)・畠山義就(はたけやまよしなり)・大内氏・土岐氏らが参入。戦国時代の幕開けとされる「応仁・文明の乱」である。この乱で竹田城2代城主・太田垣景近は宗全に従い京都へ出陣、景近の次男・宗近が留守を守り、来攻した細川軍を見事に撃退した。以後、太田垣氏が代々の城主を務める。1569年(永禄12年)に織田信長の先鋒・羽柴秀吉が但馬へ侵攻、竹田城を攻めるが落とすことはできなかった。



マチュピチュを想像する天空の城?のようです


山頂に築かれた竹田城は難攻不落、鉄壁の守りを誇ったのでした。しかし1577年(天正5年)羽柴軍が再び攻城、ついに落城してしまう。秀吉は要害の竹田城を自軍の根拠地とするべく接収、弟の羽柴小一郎秀長を城代に任じて城の再整備を命じた。
1580年(天正8年)に桑山重晴、次いで1585年(天正13年)に斎村(赤松)政広が城主となる。羽柴秀長〜斎村政広の城主時代における改良工事で竹田城は旧来の土塁造りの城郭から総石垣造りの近世城郭として生まれ変わる。
この石材は城の周辺から集めたものとみられ、穴太流の野面積み技法で組まれている。竹田城の縄張りは山頂から3方へ延びる尾根を曲輪としてある。頂上に天守台と本丸を構え、南方尾根に南二ノ丸・南千畳曲輪、北方尾根に二ノ丸・三ノ丸、北西尾根に花屋敷曲輪を置いた巧妙なもので、城の全周を監視できる構造。この全ての曲輪が石垣で固められ、その規模は東西100m、南北400mにも及ぶ広大なもの。山頂に築かれた山城遺構としてはかなり大規模と言えます。
斎村政広城主時代の慶長初期に工事は完成したとみられ、同時期に城下の整備も行われた。政広は播磨守護赤松氏の末裔で、赤松政秀の子。当初は赤松広秀と名乗っていた。秀吉の四国征伐・九州征伐・朝鮮の役に従軍。名族の出自らしく文化人でもあり、朱子学京学派の祖とされる儒学者の藤原惺窩(ふじわらせいか)と親交があった。



ふもとから見た山城の竹田城跡です


竹田城下町の和田山に産業を奨励し経済の振興を図った城主である。1600年(慶長5年)の関ヶ原合戦では当初西軍に属するが、東軍に寝返り鳥取城攻撃に参加。ここで政広は対応を見誤る。戦功を焦るばかりに鳥取城下町へ放火したのである。城下を焼き払った事に徳川家康は激怒、政広に切腹を申し付ける。
慶長5年10月28日、鳥取真教寺で斎村政広は自刃。竹田城は召し上げとなり破却された。これ以後、約400年に渡り竹田城跡は全く手付かずであったため天正〜慶長期の山城遺構をそのまま保存する貴重な史跡となったのです。
これにより1943年(昭和18年)9月8日、国の史跡に指定される。現在は整地され、誰でも入山できる城址として整備保存が為されている。天守台から眺める景色は絶景!曲輪・堀切・石垣などもほぼ完全な状態で残されていますので一度は訪れてみる事をお奨めします。


今でもそのままの姿で残る天守台の石垣

竹田城下を見下ろす風景が素晴らしい

          竹田城下町を訪ねてへ