佐用町・平福のツーリング      2007.10.23 (火)  晴れ    兵庫県佐用郡佐用町

中国自動車道を西へ、佐用ICよりR373を走って佐用の町に到着です。昼時だったので先ずは腹ごしらえです。最近佐用では「ホルモン焼うどん」がはやっている事を聞いたので行ってみる事にしました。佐用ICを降りてすぐの国道側にあるお店に寄って食べてました。

その後、佐用の町をぶらっと散策、JR佐用駅で宿場街平福(ひらふく)の情報を得て訪れることにしました。ここ平福は剣豪 宮本武蔵のゆかりの地でもあります、そして今から約400年余り前、利神(りかん)城主「池田由之」が築いた城下町で播磨と出雲の国をつなぐ因幡(いなば)街道の宿場町として栄えました。

旧街道を歩いてみると、なまこ壁や連子窓・格子戸の家が並び、その裏には佐用川が流れ石垣に並ぶ白壁の川屋敷や土蔵倉がその昔の面影を残していました。この川から高瀬舟で農作物等を千種川まで運んだそうです。


R373通り側にある佐用名物ホルモン焼うどん屋さん
他にもたくさんのお店がるそうですよ。
一人前 2玉のうどんを入れて焼いてもらい
お店自慢のたれにつけて戴きました。
JR佐用駅近くにある、「大イチョウの木」
街の象徴になっていて、千年の間も佐用の歴史を
見つめて今も元気に育っていました。

幹周り約10mの巨木なんです。

下から見上げるとその大きさを感じさせられる。
JR佐用駅に「星の都さよう」を象徴する
こんな可愛い像がありました。

宿場の町並「平福」

ここ平福は、慶長・元和年間(1596年〜1623年)に現在の町並みが形成され、その因幡街道随一の宿場町です。街道に沿う町並みは、昔ながらの姿で、南北に1.2キロほど続きます。利神(りかん)山とこれに対する西側の連峰の山峡の懐に抱かれて、静閑なたたずまいを見せていました。

連子窓、格子戸の平入りの家々、佐用川の石垣に並ぶ壁の川屋敷、川座敷、土蔵は静かなたたずまいを見せてくれました。

清流の川には鯉やあゆなどたくさんの魚を見ることもできましたよ。

利神(りかん)城跡

南北朝期に、赤松一族の別所敦範が利神山に山城を築いたのは貞和5年(1349年)、楠木正行が四条畷に戦死した翌年です。以来、赤松一族の拠点として約二百年を経て、慶長5年(1600年)関が原の戦のあと、播磨52万石の領主池田輝政の甥、池田出羽守由之が平福領2万3千3百石の領主となりました。

由之は利神山上に5年の歳月をかけて広壮な城郭を造営し、山麓には城主屋敷、武家屋敷を配し、さらに、街道沿いに町人地を設けるなど、城下町の建設に着手しました。

利神山上の三層の楼閣は、あたかも雲を衝くがごとき威容から「雲突城(うんとつじょう)」と呼ばれました。山頂(標高373メートル)に登れば、本丸、二の丸、大坂丸などの石垣群が今も昔の姿をしのばせています。

平福本陣跡
宮本武蔵ゆかりの旧田住邸跡

武蔵の母がここ平福に戻ったため幼少時の武蔵が育ったところと伝えられている。
宮本武蔵初決闘場の石碑

時は慶長元年(1596年)、佐用町の因幡街道沿いに栄えた宿場町平福の金倉橋のたもとで、剣豪武蔵は、13歳のとき新当流の達人有馬喜兵衛に初勝負をいどみ一刀のもとに倒したと言われています。