春の北条鉄道と鶉野飛行場跡を訪ねて    兵庫県加西市        2008.03.22

北条鉄道は第三セクタの会社で赤字路線あることからいろんな取り組みをされています。その一つは「ボランティア駅長(ステーションマスター)」です。全国各地から募集して28名の方が駅長さんになっておられます。8駅しかないのですがみなさん全員で協力して運営されているそうですよ。とても夢のある温かい話でいつまでも存続されることを願っています。

駅は「北条町→播磨横田→長→播磨下里→法華口→田原→網 引→粟生」(8駅)北条町駅から13.6kmで粟生(あお)駅到着、所要時間は約22分です。1時間に1便ぐらいで運行されているようでした。
車窓からのどかな田園風景を眺めながら、春のいい季節に乗ってみたくなる、そんなウキウキ気分にさせられそうな電車でした。

大正2年(1913年)播州鉄道(株)として発足 → 昭和18年(1943年)旧国鉄が買収 → 昭和59年(1984年)第三セクタ北条鉄道(株)が設立され現在に至る。
法華口駅 この近くに1943年海軍鶉野飛行場が建設されこの駅が物資や隊員を運ぶ重要な拠点となり当時は銀行や数多くの商店があったと聞きました。駅舎は発足した当時のままで老朽化が進んでいたが昔の面影が残る駅でした。
播磨下里方面(上り) 法華口を出て田原駅に向かう下り列車 田原駅方面(下り)
駅の周りには近くの人達が季節折々の花壇を作っておられました。
法華口駅で鶉野飛行場を知り早速行ってみることにしました。

海軍鶉野飛行場跡
加西市鶉野(うずらの)町 神戸新聞2005.08.25より   地 図

 舗装路が田園地帯を引き裂いて横たわる。60年前に役目を終えた旧海軍の滑走路が、当時のままの形で残っている。

      現在の滑走路2008.03.22

周辺には掩体壕や機関銃の台座、弾薬庫など、戦争遺跡が多数残存。関係者は平和教育のための保存を模索している。


 太平洋戦争は1942(昭和17)年6月のミッドウェー海戦を境に、日本に不利な状況へと向かった。軍はパイロットを短期間に多数養成するため、各地に訓練用の飛行場を急造した。

 兵庫県内でも、加西郡(現・加西市)南東部の鶉野(うずらの)台地に、海軍の飛行場建設が決定。百戸以上の民家を立ち退かせ、1942年11月ごろ着工。近隣住民や朝鮮人労働者らを大量動員し、翌年9月、突貫工事で使用開始にこぎつけた。その翌月、パイロット志願の兵士を訓練する姫路海軍航空隊がここに設立された。

 当初は土を固めた滑走路だったが、1944年にコンクリート舗装の滑走路を新設。終戦までに長さ1200メートル、幅60メートルの規模となった。一方、隣接地には川西航空機(現・新明和工業)の工場が建てられ、戦闘機「紫電」「紫電改」を組み立てた。滑走路は練習飛行のほか、ここで完成した戦闘機の試験飛行にも使われた。

 その後、戦局がますます切迫し、南の海では特攻が始まった。同航空隊でも1945年になると特攻隊「白鷺(はくろ)隊」を結成。ここで訓練を受けた63人の若い兵士が、各地の航空隊へと赴き、沖縄近海の米艦目掛けて突っ込み、散っていった。

 飛行場周辺には、戦闘機を米軍の目から隠すための掩体(えんたい)壕を多数造ったが、滑走路はなすすべがない。一帯は終戦間際、爆撃や機銃掃射に何度も見舞われ、犠牲者が出た。緑濃い山間の丘は戦場と化した。

 滑走路は今、陸上自衛隊が訓練場として管理する。周囲の美田は、戦後入植した開拓団の努力の結晶だ。傍らには旭日旗が翻る平和祈念の碑。ここでは60年前が「過去」に思えない。

終点北条駅の一つ手前の「播磨横田駅」に来ました。
駅近くの田んぼには菜の花が満開です。何故か写真を撮ってると列車がやって来るんです1時間に1本なのに不思議?ですね。
乗・降者の人も無く駅を後にした上り列車
長(おさ)駅方面へ(上り) 菜の花にミツバチがブンブンと群がっていましたよ。 終点北条駅方面へ(下り)
播磨横田駅付近の菜の花 そこにも下り列車が通過・・・・・気持ちのいいのどかな春のひとこまでした。
みとろ(見土呂)フルーツパークにも寄って来ました。 (加古川市上荘町見土呂) 地 図
ここみとろフルーツパークは平成11年にオープンした農業公園で「八つ塚古墳」群を山頂にもち山全体をフルーツをテーマとした公園だそうです。またクリスタルアーチ(亜熱帯果樹園)があり熱帯植物等が育っていました。
南斜面の梅林ではかわいい花を咲かせていました。
小高い古墳跡には菜の花や梅・すももなどが春の日差しを浴びて心地いい風にゆれていました。すももの花はもう少し先のようです。
展望台から加古川の街や その遠くには明石海峡大橋が望めるとの事でしたが霞んで見ることが出来なかった。